10歳の沙也加さんの前で母・聖子は仏頂面…神田正輝との“愛情格差”をベテラン記者は見た
日刊ゲンダイより
35歳の若さで亡くなった神田沙也加さんの遺骨を手に、揃って会見した神田正輝(71)と松田聖子(59)。ふたりは憔悴しきった様子で言葉少なだったが、沙也加さんは、幼い頃からふたりの間で揺れ続けた人生をおくっていた。
1997(平成9)年に松田聖子と神田正輝は12年の結婚生活にピリオドを打ち、「聖輝の離婚」との見出しがスポーツ紙一面に躍った。このとき、沙也加さんは10歳。ベテラン芸能記者の青山佳裕氏が振り返る。
「あれは聖子さんご夫妻が別居中のことです。神田正輝さんが外車のハンドルを握り、都内一等地の聖子さん邸へ。今や遅しと待っていたのでしょう、真っ先に飛び出してきた沙也加さんは満面の笑みを浮かべていました。そして大好きなパパの胸に飛び込むと、『ママ、早く早く』と玄関を振り返りました。そこでようやく現れた聖子さんは仏頂面を隠そうともしないでいたのです」
やがて向かったのが都内の寿司店。
「久しぶりに両親が揃っての外食だったのか、沙也加さんは小さな手をパパの大きな手とつなぐと、もうひとつの手でママの手を握り、引っ張るようにして店内へ。はたから見ると、仲良し親子のようでしたけど、沙也加さんの姿が痛々しく、かわいそうでしたね」(青山氏)
■“青い目の愛人”の前では一転して笑顔
聖子は当時、ニューヨークで知り合った「青い目の愛人」との関係を取り沙汰され、暴露本も出て、連日ワイドショーや芸能マスコミのカメラに囲まれていた。本人もそれを楽しんでいたのか、成田空港で取材エリアが過ぎ、階段を下りる途中で振り返った顔はそれまでの仏頂面が嘘のような笑顔、白い歯を見せていた。
「神田さんも、同じ区内の高級マンションで優雅なひとり暮らしをしてらして、銀座とか赤坂のクラブのママさんらと浮名を流していました。両親とも、好き勝手に生きて、沙也加さんはその間で幼い頃から傷つき、悩んできたのだと思います」(青山氏)
「沙也加を愛しているよ」
沙也加さんは2017年の結婚式に、母聖子の参列がなかったことで、確執の深さが表面化。一方、パパ神田正輝とは良好な関係を続けたようで、正輝はハワイ挙式にも出席しバージンロードを共に歩いたほか、沙也加さんがSNSで正輝とのツーショットを公開するなどしてきた。沙也加さんの著書「Saya Little Player」には「パパが何処に居ても 見えなくても 沙也加を愛しているよ」と直筆メッセージを寄せていた。
毎年10月1日、沙也加さんが誕生日を迎えると、電話で「ハッピーバースデー」を歌って祝福、音程が外れてしまい「オリジナルメロディー」と言われたりしながらも、愛情を示していたのだろう。「パパありがとう」と、お礼を言われていたそうだ。
そんな愛娘も、もうこの世にいない。両親を前に、沙也加さんは天国で何を思うのか。また、夭逝した娘に聖子は、神田正輝は何を語ったのか――。
「次に生まれるときは、普通で平凡な家庭に生まれてきて欲しいと思ってしまいます、本当に」と青山氏は言っている。
《神田沙也加さん追悼》松田聖子が娘に願った「一番の親孝行」 過去インタビューで振り返る“母娘愛”の軌跡
NEWSポストセブンより
歌手・松田聖子(59)は、1985年に俳優・神田正輝(70)と結婚し、1986年10月に長女・沙也加さんを出産した。聖子がトップアイドルのまま結婚・出産を経たことは芸能史において革命とも言える出来事で、「ママドル」という新語まで生み出した。
1997年にリリースした『私だけの天使〜Angel〜』の歌詞は、聖子が愛娘である沙也加さんを想って書いたものだ。「天使」「宝物」「生きがい」と娘への愛情を歌う同楽曲のシングルのジャケットには、聖子と沙也加さん、母娘で繋いだ手の写真があしらわれていた。しかし12月18日、娘は母より先に短い生涯を終える。12月21日、聖子は北海道・札幌市内の斎場で沙也加さんと無言の対面をし、沙也加さんは荼毘に付された。
聖子にとって唯一の娘・沙也加さんの逝去はあまりにも早すぎる別れだった。聖子と沙也加さんが自ら答えたインタビューの内容から、母と娘の「絆」を紐解いていく。
優しくてちょっと厳しい普通のお母さん
まずは沙也加さんが8歳のころに行われたインタビューを振り返る。日本を代表するアイドル歌手である“聖子ちゃん”も、小学生の娘にとっては、優しくてちょっと厳しい普通のお母さんだったようだ。
〈(沙也加ちゃんのお弁当は)変わらないですねえ。相変わらず卵焼きとかウインナー、アンパンマンのハンバーグ。(中略)お弁当に関してはいろいろいいますからねえ。『またピーマン入れるの』とか。『だったら持っていくのやめなさい』って。私、厳しいんです。まあ、リクエストも聞きますけど、基本的に“あれ作って”じゃなくて、“作ったものを持っていきなさい”のほうですから〉(『JUNON』1994年12月)
〈(『母してる』と思う瞬間は)朝お弁当を作ってるときと、学校から帰ってきてもなかなか宿題や勉強をしなくて『まったくもう』って怒ってるときかなあ。でも、ときどき思うんです。これって、私が小さいころに母にいわれたのと同じだわって〉(同前)
このインタビューで聖子は、インタビュアーから何気なく出た「セーラームーンソーセージ」という言葉にすかさず「そんなのあるの? どこに売ってるの?」と反応する場面もあり、娘の笑顔が見たい母親としての素顔を感じさせる。
しかし、沙也加さんが10歳の頃に両親が離婚。1998年に聖子が6歳年下の歯科医師と2度目の結婚(2000年12月に離婚)をすると、沙也加さんは米・ロサンゼルスの日本人学校に編入することになった。有名人の子どもということで、中学時代は壮絶ないじめも経験した。やがて17歳に成長した沙也加さんは、芸能界に興味を持った。芸能記者が語る。
「1999年12月、沙也加さんは『ALICE』のペンネームで母・松田聖子の曲『恋はいつでも95点』に歌詞を提供しています。そして2002年5月、『ever since』で歌手デビューし、翌2003年には映画『ドラゴンヘッド』のヒロイン役で女優デビュー。実に華々しい芸能界入りでした。
2001~2005年ごろは音楽番組などで母娘共演することも多かったのですが、もともと聖子さんは娘の芸能活動には反対でした。それでもデビューするとなったら、母親として応援する気持ちに変わったようです」
しかし、鳴り物入りで芸能界デビューした沙也加さんは、「親の七光り」と大バッシングを受けることになる。苦悩しながら、なんとか自分だけの道を見つけようとする沙也加さんの姿は、母親である聖子の目にも眩しく映った。
〈彼女の中には『母とは違う』という意識があるんだと思います。母はああやって、あんなふうに仕事をしてきたけれど、「私は私、私はこうなるんだ」という自分らしさのイメージがはっきりあるはず。それは、見ていてよくわかります。私にすれば、『すごいな、この人』と感心する部分をいっぱい持ってますもの(笑)〉(『LEE』2003年8月)
聖子は1990年に全米デビューし、母娘の時間がとれないことも多かった。同じ芸能界で沙也加さんの成長ぶりを間近で見て、自分の育児に一区切りがついたことをしみじみ実感したのかもしれない。
〈子育てって、その人たちに合ったやり方があるから、どれが正しくてどれが間違ってるなんて、言えませんよね。たまたまうちはこうした形できて、ホントにいい子に育ってくれて、とてもいい関係です〉(同前)
悩み抜いた結果、沙也加さんは自分を見つめ直す時間が必要だと結論づけたようだ。2005年には所属事務所が〈高校卒業をひと区切りとし、この機会にゆっくりと時間をとっていろいろなことを勉強し、将来のことを考えたい〉と発表し、芸能活動を休止した。
「私はひとりの社会人として母と向き合いたい」
「彼女が本名の『神田沙也加』として芸能界に戻ってきたのは、翌2006年のこと。休止期間中は、『Lily』という名義でストリート系ファッション誌の読者モデルを務めたり、『上原純』というペンネームで聖子さんのシングル曲の作詞・作曲を行っていました。自分自身と向き合い、将来について考えていたようです」(前出・芸能記者)
2007年11月には、母娘の初ツーショットインタビューが『25ans』に掲載された。母親と同じ芸能という道を選んだ理由について、沙也加さんは〈あの環境で育って、表現することに憧れない、っていうほうが難しかったかもしれない〉と語っている。
当時の母娘はまるで友達同士のような関係で、仕事以外の話題では、しっかり者の沙也加さんが聖子の相談に乗ることもあったという。
〈聖子「きっと沙也加が頼れるルームメイトみたいな気持ちになって、スイッチが入っちゃうのね」
沙也加「そうそう。そんなときにふと、私も母と同じ顔して笑っていることに気がつくんです。ああ、母娘だな、って思っておかしくて。私もますます楽しくなります」
(中略)
聖子「最近はあなたが舞台に向かうとき、いつも“いってきまーす”って言うでしょ。そのときこそ、本当に楽しそうで、同時に頼もしいと感じるの。あんなに小さかった娘がこんなに成長したんだと、感慨深いですね」〉
2010年代に入り、沙也加さんの芸能人生は大きく動き出す。別の芸能関係者が語る。
「もともとアニメ好きの沙也加さんは、2012年、テレビアニメ『貧乏神が!』で声優デビューを果たしました。女優業と並行して、1年以上前から声優の専門学校に通っていたそうです。そして2014年、ディズニー映画『アナと雪の女王』のアナ役の日本語吹替え声優を担当したのは、誰もが知るところです」
自信を得たことで、沙也加さんも母親と対等に向き合う意識が強まったようだ。
〈私たちは母娘であると同時に、アーティストとして、そしてプロデューサーとして、先輩・後輩という関係。それぞれの立場、ファンの方々の層や扱い方がまったく違うからといって甘えるのは簡単かもしれないけど、私はひとりの社会人として母と向き合いたい〉(『JJ』2011年6月)
その後も順調にキャリアを詰んだ沙也加さんは、人気ゲームを原作とした舞台『ダンガンロンパ THE STAGE〜希望の学園と絶望の高校生〜』で共演した俳優・村田充と2017年に結婚する(2019年に離婚)。
「沙也加さんはようやく自分の歩むべき道を見つけられたようですが、この結婚をきっかけに聖子さんとの関係に溝が深まりました。結婚を機に沙也加さんは聖子さんの事務所から独立し、聖子さんも娘の結婚式に出席せず、『母娘の断絶』と世間の注目を集めました」(芸能関係者)
確執と和解を繰り返し、近年はメディアでお互いについて語る機会もなかった。しかし、聖子にとって沙也加さんが愛する娘であることに変わりはない。かつて聖子は、沙也加さんについてこのようにも語っている。
〈究極には、心身共に健康であってほしいという、それだけなんです。心も体も健康であってくれれば、それが一番の親孝行〉(『FRaU』2006年7月)